映画『トイ・ストーリー4』

公開当時から「ウッディのラストの決断」や「ボニーの描写」、「既存キャラの扱いの軽さ」など、否定的な意見も多く飛び交った今作👀
前作『3』までのシリーズがおもちゃとしての「問題」や「悩み」を丁寧に描いていたのに対し、今作は「役割からの解放」や「自己実現」といった、まるで「現実を生きる人間の悩み」をテーマにしているように感じました。
映画としてはとても面白かったです。けれど、「これをトイ・ストーリーでやる必要ある❓️」というのが、私の率直な感想でした。
個人的な評価は 【☆☆☆】(星3つ) です。
1. ウッディの決断と「現代人」の悩み
ウッディのラストの決断。
私はあの結末について、理解はできるんです。……できるんだけど、やっぱり寂しさが残る。
アンディのおもちゃだった時代、ウッディは常に必要とされる「1軍」のおもちゃでした。大人になって遊ばれなくなったとはいえ、アンディにとって彼が「特別なおもちゃ」であることは変わりませんでした。

しかし、ボニーのおもちゃになってからの彼は、一気に「2軍、3軍」へと格下げされてしまいます。クローゼットに放置される日々。ウッディにとって、これは人生で初めての経験でした。
その立場になって初めて、彼は「必要とされないおもちゃ」の痛みが分かったのだと思います。
それでも「ボニーのために出来ること」を必死に探し、自分の存在価値を見出そうとするウッディ。ですが、これはボニーのためと言いつつ、本当は「必要とされなくなった自分」の心を保つためにやっていた事だったのかもしれません。
そんな時に、外の世界で「自分自身の生き方をする」ボー・ピープと再会します。ウッディが彼女の自由な生き方に魅了されていくのは、流れとしては非常に自然なことだと思います。
だけど…💧…だけどねぇ〜💧
「う〜ん💧」と思ってしまうのです。
これは「おもちゃ」ならではの葛藤というより、あまりにも「現代人の悩み」そのもの。
せっかく『3』であれほど綺麗な「おもちゃの終着点」を観せてくれたのに、どうして余計なことを…
っと思ってしまいます💧
2. シリーズの価値観を否定しかねない「歪み」

ボーの生き方は、ひとつの「自立したカッコいい選択肢」です。ただ、映画側がそれを「これこそが今の時代の正しい生き方だ!」と声高に押し付けてくるような空気感があるからこそ、観ていて反発したくなってしまいます。
これまでのシリーズが紡いできた「ひとつの場所で、誰かのために尽くす幸せ」を、この『4』の価値観が「それだけが人生じゃない、外に出る方が自由で素敵だよ」と上書きしてしまったような寂しさがあるのです。
ウッディが無能に描かれることで、映画全体のトーンが【古臭い価値観(ウッディ) vs 新しい外の世界(ボー)】という、極端な二項対立に見えてしまうのも気になりました。
観ている側からすると、「いや待ってくれ」と言いたくなります。
「誰かのもの」として生きる幸せだってある‼️
これまで1〜3で、ウッディたちがアンディの部屋で築いてきた絆や、「おもちゃとして子どもに寄り添うことの誇り」は、決して否定されるような薄っぺらいものじゃなかったはずです。
ボーの生き方が「正解」としてキラキラ描かれれば描かれるほど、部屋に帰っていくバズやジェシーたちが、なんだか「古い価値観に取り残された哀れな存在」のように見えてしまう歪みが生じているのが、一人のファンとして悲しかったです。

いくらおもちゃのスタメンから落ちて、存在意義を見いだせなくなっていても「トイ・ストーリー」の主人公はウッディです。その作品の顔であるウッディが新しい価値観側に行ってしまうことは、今までの物語そのものを否定するような構図になってしまう。
『トイ・ストーリー4』のあの結末は「ウッディでなければ説得力のある作品にならなかった」と感心する反面、「ウッディが出した結論だからこそ、決定的な歪みが生じてしまった」とも思える、なんとも言えない複雑な感情になってしまうのです💧
ただ、ウッディがボーと一緒に行くのは「おもちゃを子供達の元に送り届ける」という目的なので、「子供と一緒にいる」事を大事にしているのは分かります。分かりますが…💧それは自分の価値観を押し付けているようであまり好きではないです。
3. ボニーの描写と、パパへの不快感
前作のラストであれほど熱くおもちゃを受け継いだボニーが、今作であっさりとウッディに無関心になり、放置している描写。ここに対して「アンディの想いはどうなったの💢」という批判意見もよく見かけます。
しかし、これに関しては私は「子供なんてそんなもんよ」と納得しています。ましてボニーは女の子ですから、カウボーイのウッディより、カウガールのジェシーに興味が移るのも自然なことです。
だけど、酷いのはボニーのパパです😭

散らかっている部屋でおもちゃを踏んじゃうのはしょうがない。だけど、おもちゃを踏んだら普通「やべっ、何か踏んだ!?」って足を動かしますよね❓️
踏んだ感触は絶対にあるはずなのに、ウッディを思いっきり踏んづけたまま、平気でボニーに話し続けるシーンは、笑いよりも不快感の方が完全に勝ってしまいました。
4. 既存キャラの扱いの軽さ……特にバズの違和感
今作では、お馴染みの仲間たちの活躍がほとんどありません。基本的にはキャンピングカーにお留守番でこもりっぱなしです。
個人的には、おもちゃが人間社会で人目に付くような大騒ぎをしてほしくないので、そのお留守番の判断自体は歓迎でした。

ですが、バズの描写があまりにもひどかった😭
ウッディが自分を見失っている時、バズに漏らした「内なる声(本当の気持ち)」。それを聞いたバズは、なぜか自分の胸のボタンを押して流れる「内なる声(おもちゃの内蔵音声)」のことだと勘違い(?)します。
バズって、こんなに仲間の気持ちを察せない、おバカなキャラでしたっけ💦
『1』の、まだ自分がスペースレンジャーだと盲信していた頃の彼ならその勘違いも分かりますが、長年ウッディの相棒として酸いも甘いも噛み分けてきた彼が、あんな「都合のいいギャグキャラ」として動かされているのが残念でなりませんでした😤
物語のラスト、ボニーの元へ帰るか、ボーと共に外の世界へ行くか迷うウッディに対し、バズがこう声をかけます。
「彼女は大丈夫だ」
「彼女」のことをボーのことだと思っているウッディに、バズはまっすぐ続けます。
「ボニーは、大丈夫」
「本当に?」
「あぁ。内なる声を聞け」
ここ自体はめちゃくちゃ感動的で良いシーンなんです✨️
だけどこの「内なる声を聞け」というセリフを最後にバズに言わせたいがために、前半であれほどくどい「ボタンの心の声」をバズにやらせていたんじゃないか❓️ と勘ぐってしまうのです。それほど今回のバズの扱いは酷かった。😭
おそらくスタッフは、『1』の名セリフ「飛んでるんじゃない、落ちているだけだ!かっこつけてな。」と同じような、セリフの回収をやりたかったのだと思いますが……そのためのキャラクターの改変は、強引すぎたように思います。
まとめ:このモヤモヤの先に待つ『5』へ
さぁさぁ、色々と文句を言ってしまいましたが、
1本の独立したアニメ映画として観れば、アンティークショップの怪しげな雰囲気や、夜の移動遊園地の照明の描写も凄く魅力的です。全体のテンポも素晴らしく、ギャビーギャビーやウッディの心の葛藤も上手く描けており、間違いなくクオリティの高い作品です✨️
ただ、『トイ・ストーリー』というシリーズが紡いできた「おもちゃの物語」としては、どうしても割り切れないモヤモヤが残る1本でした💦
そして、この『4』の切ない結末の先に、公開を控えた『5』が待っています。
外の世界に飛び出したウッディと、ボニーのもとにに残ったバズたち。離れ離れになった彼らが、今度の最新作で一体どんな運命を迎えるのか。この『4』のモヤモヤを吹き飛ばすような、本当の「大団円」を観せてくれることを、一人のファンとして切に願っています。